帰りたくなんてないのに

10月半ばの週末、大学時代の友だちと総勢6名で、一泊の弾丸旅行に行った。目的地は杜の都仙台。旅の仲間はAちゃん、Sぴょん、Yちゃん、Mたん、Hちゃんだ。名前だけでも覚えて帰ってくださいね(負担)。そしてこの先、延々と内輪の楽しかった思い出話が続くのでご了承ください。もしあなたが近いうちに仙台に行くなら、仙台駅から松島までの電車は1時間に2本程度しかないことを覚えておかれるとよろしい、これが唯一の有益な情報で、これ以降は読んでも旅行の役には一切立たないことをお約束します。あなたが知っている人も、たぶん伊達政宗松尾芭蕉しか出てこない。あとジェイソンステイサム。

 

大学を卒業して早8年、今や西は愛知で北は青森に暮らし、仕事の休みも家族構成もてんてんばらばらな我々だから、集まるとなったら誰にとっても一仕事だ。各々が予定をこじ開け、分担して宿を比較検討、それと新幹線を予約し、やりたいことを列挙して、どう網羅するかを相談する。現地でのJRの時刻表まで調べ上げる、修学旅行のようなスケジュール管理だ。学生時代にはもっと行き当たりばったりな旅行もしていたのに、年齢を重ねた分だけ律儀に生き急いでいる。そして何より大切なのが、当日、健康でいること。アラサーにはこれが一番難しかったりする。Yちゃんなんて事前に「仕事の都合で、多分寝ないで合流する」と宣言していた。生き急ぐどころか、寿命を削っている。

 

ところで、わたしは当時彼氏だった夫が仙台に暮らしていた期間が5年ほどあり、その遠距離恋愛の間に20回ほどは仙台に足を運んだだろうか。今回の仙台は5年ぶりで、正直、めちゃくちゃエモい。しかし2日間ことあるごとに彼氏との思い出に浸ってたら、これは大変寒くて痛くてキツい。だから防衛省勤務のAちゃんに「わたしがスイートな思い出に浸ってたら銃殺してほしい」と事前に頼んでおいた。でも当日会った彼女に「我々の銃はそんなことのためにあるのではない」と至極真っ当な返事を受けた。日本の国防は安泰だ。

 

東京駅から懐かしのはやぶさに乗り(銃殺!)1時間半。わたしはSぴょんとMたんに、この夏イチオシの映画『MEG モンスターズ2』を激推しし、ジェイソンステイサムが片脚で巨大ザメと戦うシーンと、その状況から入れる保険があるんですか?という話をしていたら着いていた。

 

仙台駅で全員集合し、日本三景、松島へ。冗談のつもりで詠んだ「松島や ああ松島や 松島や」が「流石っす!」とめちゃくちゃ評価された松尾芭蕉の気持ちはいかばかりか、天才はなんて孤独なのだろう、という話をしていたら、着いていた。あまり時間はなかったので、遅めのランチを食べ、少し海岸線をぶらついたらもう時間がなくなり、最後は「撮れ高撮れ高!」と言いながらJR松島海岸駅に駆け込んだ。そして仙台駅からはバスで秋保温泉へ。バスでは隣に座ったHちゃんに、例のメンズと始まったのか問い詰めていたら着いていた。斜め後ろではMたんが、AちゃんにPixivの使い方について質問攻めにしていた。

 

宿はバブリーに広く豪華で、混んでいた。本当に混んでいたらしくチェックインの受付で「夕食は5時と7時の二部制だが、7時がとても混んでいるので5時にしてもらえないか」と打診された。しかし先に汗を流したかった我々はそれを却下。「特別に6時半も選べる」と食い下がられたがそれも却下。どんだけ風呂に浸かりたいのか。そうしてやっとチェックインした部屋は、備え付けのお茶が「とうがらし梅茶」というめちゃくちゃ人を選ぶお茶で笑った。それからみんなで広い温泉に浸かり、わたしは肩凝りに効くかなと打たせ湯に打たれたものの「水遊びなんだが」以上の感想はなく、みんなに「かっこいい」と賞賛(心配)された。

 

果たして7時の夕食会場は激混みだった。わたしはようよう弱くなりゆく胃腸のせいで、ステーキや揚げ物、中華はほとんど食べられなかったが、代わりにライブキッチンで握ってくれるお寿司をたくさん食べた。

食事中、左利きを矯正することの是非について議論。メンバー唯一の左利き、Mたんによると、「箸の持ち方を教えるときに右利きの親が発狂してた」らしいが、それでも今彼女は正しく箸を使っているし、何より左利きはかっこいい。天才っぽい。右利きのことなんて全員馬鹿にしてるんでしょう?と聞いたらMたん、否定していた。矯正は「しなくていい、しない方がいい」という意見で一致し、ついでに「親が発狂しても子は箸を持つ」というアフリカの諺を発明した。

 

夜は「じゃれ本」(リレー小説のような遊び、詳しくはwebへ)に興じつつ「どらぼこ」というかまぼこスイーツを食べた。SぴょんとAちゃんとは日本酒が飲めて嬉しい。これまで、旅行はこの寝る前の時間が一番楽しいと思っていたけれど、ここまでもずっと楽しいので、逆に特筆することがない。日本酒は2本あるうちの、甘めの方を先に飲んだら、後から飲んだ大吟醸が消毒のようだった。Aちゃんは去年の映画から『スラムダンク』にどハマりし、秋には10万字の同人誌まで出したらしい。2万字の卒論に四苦八苦していたあの頃の彼女と、本当に同一人物だろうか。

 

翌日は雨。またバスで仙台に戻る。Yちゃんの職場のヤベェ奴が送ったヤベェメールを見て「こいつ恥ずかしくないんかな」と悪い意味で圧倒されていたら着いていた。仙台駅には気色の悪わたしの好みではないゆるキャラが来ていて、Sぴょんが大喜びで一緒に写真を撮っていて面白かった。ゆるキャラは、ずーしーほっきーというらしい。目が、イっちゃってるんよ。

 

バスで伊達政宗の霊廟である瑞鳳殿に向かい、その派手さにテンションが上がる一方、靴が完全に浸水してわたしのテンションはトントンになる。その後、1人だったら絶対に無視したであろう資料館に入ったら、この展示が大変興味深かった。何代目かの伊達藩主が口腔がんで死んだことや、血液型、大体の顔立ちなんかも、DNA検査等でわかっているらしい。家系図の近くに、「彼らは間違いなく親子関係です」的なことが書かれていて、こんな後世になってそんなことを開示されるなんて、と勝手にドキドキした。「そのうちブルベ/イエベもわかっちゃうのかなあ!?」とキャッキャして、あの瞬間が一番「女子」だったかもしれない。

 

その後はずんだ餅を食べ、アーケードを歩いて仙台駅へ。アーケードは夫ともよく歩いたので、なんて思い出深い銃殺、と思いきや、お店はかなり入れ替わっていたし、それ以上にわたしは濡れに濡れたスニーカーのせいで30メートルに1回は足を滑らせており、転ばないことに必死でスイートメモリーには程遠かった。ようやく辿り着いた仙台駅で、お土産を買うのに一度解散し、わたしはよっぽど靴下を買いに走ろうかと思ったが、萩の月をしこたま買っていたらそんな時間はなかった。ここまで読んでくれた方に感謝の気持ちを込めてお伝えするが、萩の月は化粧箱に入っていない簡易包装のタイプがあり、そっちが安いのでおすすめです。

 

とにかくこの2日間は最高で、わたしはこの仲間で集まるといつも会った瞬間から「最高すぎるからここで解散しよ」「これ以上はない、もう帰ろ」とばかり言っている。あんまり言うので、最近ではわたしの帰りたがりと、Mたんの「最高すぎる、もう死んでるのかも」が、我々の中で伝統芸能の様相を帯びてきた。これからもわたしは帰ろう帰ろう言い続けるし、わたしが参加できないときにも、メンバーの誰かに継いでほしい。

 

帰りの新幹線で、クリスマス会と銘打って年末に集まる会場を探すが、スマホではなく人間の充電が切れて寝てしまう。アラサーだもの。むしろよく頑張った方である。家に着いたのは8時過ぎで、ちょうど夫が子を寝かしつけるところだったが、夫に「お風呂前、子が初めてトイレでおしっこできた」と報告されてショックを受けた。決定的瞬間を見逃したあああ!!あと30分早く、帰ってくればよかった!!!

煮えたぎるような

真夏のピークが、去った。

遅すぎ

と言う他ない。もうこっちは虫の息です。

去年、愛知に引っ越してきて最初の夏、息をすれば気道から肺までを火傷しそうな暑さに私と夫はなす術もなく呆然とした。玄関を開けた途端に「死」がチラつく暑さ。フェーン現象ヒートアイランド現象の悪魔合体が原因らしい。そう知見を得て2度目の夏、暑さへの覚悟はできていた。子のためにアイスリングも買った。だけど夏がこんなに長いって、長いってどういうこった。

 

暑さでわたしの堪忍袋の緒も焼き切れてしまったらしい。この終わらない暑さに対してわたしは極めて短気になっていて、9月後半に入ってからはこの「暑さ」を相手にほとんど毎日キレていた。先月の22日、朝グーグルホームに天気を聞いたら「今日の天気は最高気温32度、晴れです」と言われて、はっきりと舌打ちをしてしまった。それに自分でもびっくりして、だから日付を覚えている。なんなら「クソがよ!!!」ぐらいは言いたかったけど言い慣れていないので咄嗟に口から出てこなかった。言語習得真っ盛りの2歳児と暮らす身としては、それぐらいでちょうどいい。それでなくても子は最近、口にしたものが予想より熱いと「激アツみたい」と言うようになってしまって、これだけで言葉遣いが悪い!とはならないけど、なんとなく「オォ」とは思う。

 

9月は、遠方の友だちが仕事ついでに会いに来たり、家族旅行をしたり、子を夫に任せて友だちと飲みに行った(ら、そのお店がまあ雰囲気もよくご飯もお酒も美味しくなぜかそこで撮ってもらった自分の写真も爆盛れて最高の一夜だった)り、楽しく充実した1カ月だった。だけど思い出そうとすると、全ての思い出は陽炎の向こう。誰と何を話したか?「あ゛つ゛い゛」とばかり言っていた気がする。

先週も、30度超えの日にスーパーの白菜売り場で「鍋、クリーム煮なんてどうですか?」と書かれたポップを見つけて「殺す気かよ」と憤慨したり(白菜は買った)、児童館の先生が知らない誰かに「来週から涼しくなるみたいですよ」と言うのを聞いて「当たり前だろうが、10月だぞ」と脳内で突っ込んだり。こうして書いてみると、自分から体感温度を上げている感じがしてお恥ずかしい限り。でも、私が怒ってるのはスーパーの青果担当者でも児童館の先生でもなく「暑さ」に対してであることはご理解いただきたい。そっちの方がやばいかもしれないけど。とにかく日増しに暑さへの憎悪を募らせていた。春は変質者が増えると言うけど、夏は「キレる人」が増えたりしてるんじゃないか。私も実質、その一員のような気がする。

だから10月に入った途端にこんなに涼しくて、ちょっと信じられない。騙されないぞという気持ちだけど、これでまた30度を超えるようならこの土地にはもう住めない。誰も。県ごと更地に戻してバナナでも栽培しよう。

 

そして今週、やっと夏物衣料を洗濯して、衣替えをしようとしたら秋にふさわしい服が全然なくて愕然とした。去年も愕然とした覚えがあるし、多分来年も愕然とするのだろう。気候でさえこうして変動しているのに、わたしときたら、不動すぎる。いっそ清々しい。秋の空みたいに?なんて思ってグーグルホームに明日の天気を聞いたら「明日の天気は最高気温24度、雨のち曇りです」と言われた。どんよりしてんのかい。

好きだ大好きだそれだけだ

「ブログとか、やってみるのはどうですか?」友人のSさんにそう言われたのは約2年前のこと。お互いの子を夫に預け、リフレッシュしようと落ち合った市内唯一のスタバ。わたしは期間限定の、Sさんは赤くて酸っぱそうで、わたしが絶対に頼まないタイプのビバレッジを飲んでいた。Sさんはこうも言った。「書いたものを誰かに読んでもらいたいと思うこと、ないですか?」わたしより少し背が高く、フレームの細い丸眼鏡をかけていて、いつも爪を綺麗に塗っているSさん。秋の夜長、暖色の間接照明に照らされるスタバの店内。わたしの生活においては極めて絵になる一場面だった。にもかかわらず、わたしはちょっと考えて「ないですね」と答えたのだった。完。

 

そんな「つまんねー女」ことわたしだったが、その3カ月後にひっそりとブログを始めた。少し前に夫の育休が終了して年が明け、いよいよ日中は6カ月の子と2人きりの生活を始めたばかりだった。

 

その頃の生活は単調で、昼間の子のお世話といえば授乳、少々の離乳食、おむつ替え、抱っこ抱っこ抱っこ抱っこDAKKO。一緒に遊ぶというよりは、子が遊ぶのを横で見ている、が正しい。できるだけ散歩に行くけれど、寒いのですぐに帰ってきがち。まだ会話はできない。日々めくるめく成長、という感じでもない。子はほどほどに寝るタイプだったので、その間に少々の家事。「少々の」で片付けられる程度の家事しかしていなかったので、コーヒー牛乳を飲んだり、スマホを眺める時間もあった。終日ワンオペで自分の時間が一切ないとか、全く眠れなくてフラフラだとか、そういうことはなかった。ただただ単調、ド単調だった。悲愴なほどに(それはハ短調)。

 

日付の感覚も消滅しており「時間、止まってる?」と思うこともしばしばだった。この日付感覚のなさは、それ以前にもあった「あれ今日って9日?10日?」どころの話ではなく、「今月もう15日!?まだ9日ぐらいかと思ってた」レベルの話なので我ながら引くし、さらに悲しいのが、それでも自分の生活にはなにも支障がない、ということだった。せいぜい、まだ余裕があると思っていた豆腐の賞味期限が今日でした、とかその程度だ。その変わり映えのなさと、冬の日照時間の短さと、産後のホルモンバランスが、少しずつわたしの心を磨耗させた。わたしは前に進めている?

 

そこで。

時が進んでいることを実感したくて、

今日も生きたし生かした、ことを「進んだ」のだと思いたくて。

始めたのが、このブログだった。

タイトルは当時見た夢から取った。坂上忍と、海とナポリタンではどちらが美しいか、という話をする夢。何それ?

 

そういう動機で始めたから、特に誰にも読まれなくて良かった。開設したことは誰にも言わなかったし、読み返すこともしなかった。ただ、日々にタイムスタンプを押すことが重要だった。この日とこの日、似ているけどほら、日付が違いますよね。だから別の日です、時間は進んでいますよ、と。手塚治虫の漫画で、どこかに閉じ込められた人間が、発狂しないために時間の経過を記録する描写が出てきた気がするけど、あれはマジ。

 

やがて春になり、私たち家族は県外へ引っ越した。新生活のドタバタに揉まれているうちに春が過ぎ、子が一歳になり、煮えたぎるような当地の夏を過ごす。秋が来て、もう熱中症に怯えずに済む!とあちこち出かけるうちに交流が生まれて知り合いが増え、冬にはそのうちの数人を友だちと呼べるまでになった。そして、何よりも子の加速度的な成長が、わたしに時間の経過を教えてくれるようになった。その一方、ブログの更新は完全に滞った。

 

去年、Sさんの誕生日をLINEでお祝いした時に「実はブログをやっています」と打ち明けた。きっかけをくれたSさんにだけはいつか言わなくては、と謎の義務感を持っていたのである。するとSさんは、日常に楽しみが増えて嬉しい、と言ってくれた。そこではじめてわたしは「だったら、書こうかな」という気持ちになった。

 

そこから、なんとなく他の友だちにもブログのことを話すようになった。みんな「読んだよ!おもしろかった」「更新楽しみにしてる!」など褒め上手なので、チョロいわたしは一層、また書こう!と思う。「おもしろかった!ところで、投資に興味ない?」と言い出す友だちがいなくて助かった。その流れなら仮想通貨でも情報商材でも、言い値で買ってしまったかもしれない。

 

友だちにウケたい、という俗物極まるモチベーションで書いていると不思議なもので、アクセス数が増え、スターをくれたり、読者登録してくださる方まで現れた。自分のためだけに書いているより、人に見られると思って書いたもののほうがウケるんだ。当然といえば当然だが、これは新鮮な驚きだった。始めた頃と今とで、わたしという人間は変わらないし、経験することにもそんなに振れ幅はないし、考え方も基本的には変わらない、つもりだ。でも「見てくれる人がいる」と思うだけで、こんなに変わるのか。わたしの友だち、という激狭の範囲にウケようとして書いたものでも、不特定多数の人に面白いと思ってもらえるんだ。

 

嬉しい。

わたしは、書くことも、読んでもらうことも、好きなんだ。

 

本当は恥ずかしいから、好きなのかもしれない、ぐらいの表現に留めたい。でも「なぜブログを書くのか?」このお題を見た時、スタバでのSさんの問いかけと重なって、だからはぐらかさずに答えたいと思った。

 

わたしは書くことも、読んでもらうことも好きだから、ブログを書いています。「おもしれー女」と思ってもらえたら、恥ずかしながらとても嬉しい。

 

わたしとひじきと豚と

少し前から、子がわたしに向かって「ママかわいー」と言うようになった。子の発語はいつだって突然で、その日の朝わたしの履いていた靴下に向かって急に「これかわいー」と言い出し、その日のうちに「ママかわいー」に到達した。子が誕生したその日から、わたしが毎日ダースで浴びせてきた「かわいい!」がついにアウトプットに結びついた瞬間である。

 

そのまた少し前まで、いったい全体何がどうしてなのか、子はわたしや夫に向かって「ブタ」と連発していた。「ブタ?」とちょっと高い声で、不思議そうな感じで言うから、大人でいうところの「は?」と近いものを感じる。そんなことを教えた覚えはないのに、気に食わないことがあると「ブタ?」と言ってきゅるんきゅるんの瞳でこちらを見上げていた。例えば、許容量以上のジュースを欲しがったとき。「ジュース」「もうおしまい」「ジュース」「ダメよ」「ジュース」「あとはお茶」「ブタ?」今なんて?

 

とはいえ、本当にブタと言ってるかはわからず。まだまだ発音も不明瞭だし。この時期に友だちの車で出かけたとき、うちの子はなぜか車中で「ブルワリー」と連呼していて、私と友だちは「醸造?」と首を捻ったが、後に「ぶどう味」と言っていたことが解明された。「何が?」という謎は残るが、とにかくブタでない何らかを言おうとしていた可能性だって大いにある。

 

そうだとしても。オムツを替えるよ、と言ったとき、「オムツ替えよう」「や!」「お尻が蒸れちゃう」「や!」「こっち来なさい」「ブタ?」違うよ。

 

でも、ブタにそんなに思い入れがあるはずがない。第一、実物を見たことがない。うちにある絵本にも、ほとんど出てこない。主役級の扱いを受けている話は、多分、無いんじゃないか。子どもの絵本の主役はだいたいクマかウサギ、次点でゾウと相場は決まっている。かろうじてブタが出てくるのは童謡集の「こぶたぬきつねこ」の中だけだ。それだって、他の曲と比べてそんなに歌っているわけじゃなく、むしろ少ないほう。「どんぐりころころ」ならもう一生どころか来来来世の分まで歌ったが。ほかのどの場面においても、創作物としてのブタと出会ったことはほぼ無い。だからやっぱり、「ブタって言ってるんじゃ、ないんだよなあ?」という風に思えてならない。

 

それなのに!キッチンにいるわたしのところへやって来て「パズル」「今は無理だなー」「パズル」「ごめんね」「パズル」「ご飯作ってるの」「ブタ」そんな言う?

 

なんといっても信じ難いのが、子の言う「ブタ」が明らかに侮辱ないし煽りのニュアンスを孕んでいることだ。ここでわたしは断言しなければならないが、わたしも夫も子の面前で、ブタを引き合いに出してお互いを罵倒したりはしていない。一応言うと、子がいなくてもしていない。我々のケンカはそんなに熱烈な感じではなく、もっとジメジメしている。自宅保育の今、子の周囲の人間との関わりはまだかなり限定的で、ほとんど全てわたしの目の届く範囲で行われている。子に向かって「ブタ!」と言うような人間もいなければ、そんなやりとりを目にしたことも、ないはずだ。

なのになのにそれなのに。「歯磨きしよ」「やだ」「やだじゃないの」「やだ」「虫歯になっちゃうよ」「ブタ!?」「ブタじゃないよ」

 

ブタ、ブタじゃない、という不毛な応酬を日に何度もしていると、だんだんイライラが蓄積されていく。子は、ブタと言っていないのかもしれないし、言っていたとしても侮蔑の意味はないのかもしれない。そもそもブタ=悪口と思うのだって、よく考えたらブタに失礼な話だよな〜とか、なるべく冷静でいられるように思考してみても、浴びせられる「ブタ!?」の五月雨に返答するのも嫌になってきて、ただ子をキッと睨む、という反応になる。褒められた対応じゃないのはわかっているけどイライラは止められない。今ここでヒグマになってやろうか、と思う。手負いの。

 

そんな風に謂れのないブタ呼ばわりを数ヶ月受けた後の「ママかわいー」は、感動もひとしおである。録音して着ボイスにしたい。最近着メロも着うたも着ボイスも、全然言わないし聞かないね。電車の中や試験会場で、赤の他人の着信音に個性を感じることは、もう無いのか。わたしの高校時代の友だちは、センター模試の真っ最中に自身のケータイが少年の声で「ユリ、起きろよお〜!」と叫び出してしまい、顔面蒼白になっていた。そんな経験、ありませんか?わたしはない。

 

話を戻すと、子は一度習得した「かわいー」の対象を瞬く間に拡大し、「お父さんかわいー」「うさぎかわいー」「コップかわいー」「くっく(くつ)かわいー」と、かわいいを量産するようになった。最近は昼食のチャーハンを前にして「ひじき、かわいー!」と叫んでおり、かわいいのハードルが地面スレスレまで下降してきている。わたしはブタを脱して、ひじきと同程度にはかわいくなった、らしい。これは喜ぶべきことなのか。人間からは遠のいてないか。ひじきも鉄分の含有量ではなくかわいさを褒められて、面食らったことだろう。

 

そして「かわいー!」と言われたわたしが「ハッピー!」と返すのが定番になり、最近は返事をし忘れると「ハッピー?」と聞かれるようになった。なんて平和なのと思っていたら、夫が仕事から帰宅した音を聞きつけて「おとうさんのけはい」と言いだしたりして、急だから本当にビックリする。子の語彙はどんどん増えて、聞けばこの時期の子どもは一日一語のペースで言葉を習得するらしい。すごいすごい、生命力に溢れている。こうして生きる力を身につけていくんだね。

 

一方そのころわたしは大人と話していても「今日アチチだね」とか「おてて洗おー」とか「あんよ疲れた」言ってしまうようになった。語彙、後退している。このまま子が語彙を増やし続ける一方でわたしは後退し続けていったら、30年後にはわたしはMAXでも5語文しか話せなくなってしまう。ベンジャミンバトンってそういう話?

これじゃあいかん、わたしこそもっとインプットを増やした方がいい。そう思ったそばから今また夫に「部屋アチチくない?」と聞いてしまった。もう語彙とかではなく、文法とか全てが間違っている。なんとなく郷ひろみの気配もするし。燃えてるんだろうか。頭が。

 

けんしとゆきえ

先日、大学時代の友だちとリモート飲みをしていた時のこと。映画『君たちはどう生きるか』の話が出て、わたしは「オモコロの面々の評価を聞いて見たくなった、あと玄師が主題歌歌ってるから見たい」と言った。言ったところ、友だちに「米津玄師のこと、玄師って呼んでんの?(笑)」と聞かれて、ハッとした。呼んでる。

 

呼んでる!!

 

翌朝夫にその話をしたら、「あー呼んでるよね」と言われた。わたしは米津玄師が割と好きだし、我が子がレモン柄のシャツを着る度に「あの日のかな〜しみ〜さえ〜♪」と歌っては夫に無視されているくらいなので、これまでもそれなりに玄師けんし言ってたんだと思う。冷静に考えると、米津玄師を呼び捨てにする道理はない。友だちじゃあるまいし。彼に関しては、なんでこんな馴れ馴れしい呼び方をしているのか忘れてしまった。覚えているのは由紀恵を呼び捨てにするようになったきっかけだ。

 

仲間由紀恵

 

美の権化こと仲間由紀恵だが(主観)、彼女を呼び捨てにするようになった時期は明確で、高一の時だ。中高エスカレーターの女子高、わたしは持ち上がりで高校生になった「内部生」だったが、高校受験を経て合流する「外部生」もいる。出席番号が私の後ろだったAちゃんは、外部生だった。彼氏がいて、眉も整えていて、制服の着崩し方もこなれていて。全てがわたしより大人っぽく、かっこよかった。

 

そのAちゃんが安室奈美恵を「奈美恵」と呼んでおり、わたしはそれにいたく感銘を受けて仲間由紀恵のことを「由紀恵」と呼ぶようになったのである。

 

なんだそれ???

 

今改めて思い出してみると、納得感が全くない。当時の自分と全く違うAちゃんに憧れるのはわかる。でも何故そこを真似した?しかも奈美恵と関係ない由紀恵を引っ張り出してきてまで。眉の整え方でも教えてもらえば良かったのに。私はいまだに、自分の眉メイクに納得がいく日の方が少ない。

 

ここ最近は呼び捨ても違うかも、と思いはじめて「由紀恵ちゃん」と呼んでいた。それも違うだろ、とは気づきつつも呼び続けていたところ、先日旅先で彼女のポスターを見かけた。何気なく「あ、由紀恵ちゃん」と反応したら、一緒にいた友だちに「なに、友だち?」と言われた。至極真っ当なツッコミである。

 

 

これを書きながら考えてみても、米津玄師を呼び捨てにするようになったきっかけはさっぱり思い出せない。でも米津玄師を好きなのは本当で、中でも『Flamingo』と『ゴーゴー幽霊船』が大好き。『Flamingo』は、わたしが実家を出る際、市役所に転出届を出した日にリリースされた曲で、その帰りのバスで聴いた時のことを思い出す、大変エモ苦しい曲だ。

 

一方『ゴーゴー幽霊船』はシンプルに歌詞が好きだ。米津玄師に限らず、固有名詞が出てくる歌詞というのが好きで、だからこの曲の「丸善前のアンドロイド」と言う箇所にときめいて、池袋のどデカい本屋の前に佇む無機物の女性、オレンジ色のワンピースを着ている、その滑らかな肌なんかのイメージを膨らませていたー

ところが!ずいぶん後になって知ったが、玄師は実際には「回るゼンマイのアンドロイド」と歌っていたのである。丸善、全然関係なかった。全てはわたしの幻想。その衝撃も相まって、わたしの中で存在感のある曲、『ゴーゴー幽霊船』。この曲は割と古いせいか、他の曲と比べて知名度が低い気がするので、確認するためだけでも是非聴いてみてほしい。言ってるから(言ってない)。

 

このことを夫に「空耳アワードに送ってみようかな」と言ったらニコリともせずに「空耳アワーだよ」と言われた。せめて笑ってくれ。今どきアンドロイドでももうちょっと愛想いいぞ。

強火オタクと2人サミット〜7人の大我くんを添えて〜

友だちと2人、一泊の旅行に行ってきた。

彼女、Kとは中学高校が一緒で、もうかれこれ18年の付き合いになる。中高とエスカレーターの女子校で6年間、吹奏楽部で一緒にホルンを吹いていた。彼女とはとても馬が合い、学生生活がはるか昔となった今もこうして仲良くしていて、数年前のわたしの結婚式では友人代表のスピーチもしてもらった。まさに21。読み方がわからない人は、周りのアラサー女性に聞いてみよう。

 

さてこのKが、オタクである。

かなりの、強火オタクである。

 

彼女は中一で出会った時から某ジャニーズアイドルの熱心なファンで、高校を卒業するまでその熱は変わらなかった。大学在学中は彼の舞台等に熱心に通いながらも、その愛は徐々に別のジャニーズJr.氏にも広がり、京都を旅行した時に彼の訪れた神社を参拝したこともある。同時にジャニーズ以外の俳優を推しつつ、観劇そのものにもハマって帝国劇場近辺を庭にしていた。社会人になってからは、時間とお金のかけ方も激しくなり、この頃ようやくわたしは「どうやらKはわたしなんかでは全く理解できないレベルのオタクだぞ」と気づき始めた。以前「これまでオタ活にいくら使った?」と聞いてみたけれど「考えたら負け」とだけ言われて教えてくれなかった。

 

この彼女の寵愛を今一身に受けるのがSixTONES京本大我氏だ。

「この度推しが増えました、SixTONES京本大我くんです」と聞いたのが去年。で、今年行われた全国ツアーでは一箇所を除いて全ての都市で参戦していた。エンジンをかけた瞬間から、アクセルベタ踏みである。「今週末は仙台で来週は北海道」「名古屋は落選したんだけどチケットはギリギリまで探す」みたいなことを言っていて、この時点でわたしなんかはもう、息を飲んでいる(しかも名古屋のチケットも実際に手に入れていた)。余談だけれどこのツアー中、彼女が泊まりに来てくれる予定があったのに、わたしが体調を崩して叶わなかった。ツアーについて「全部内容一緒でしょ」と暴言を吐いた罰が当たったんだと思っている。

 

そんな長年の友だちとの旅行も約2年半ぶり。旅先の候補は幾つかあったけど、どちらからともなく言い出した「サミットしよ2人でw」が決定打となり、広島に行くことになった。何を隠そう2人で広島に行くのは、これで4回目である。4回目ともなればツウな楽しみ方の一つや二つ見つけていて当然、くらいなものだが、わたしとKは今回も初めて訪れた時と全く同じテンションで厳島神社に感動し、鹿を愛で、揚げもみじを食べ、牡蠣を食べ、もみじ饅頭をお土産に買った。修学旅行生か?

なんにせよ彼女との久しぶりの旅行、前回は妊娠発覚直前だったことも思い出されて感慨深い。そう思っていたらKは「オタ活じゃない旅行、久しぶりすぎてよくわかんない」と全く共感できない感慨にふけっていて面白かった。

 

さて広島駅で腹ごしらえをし、電車と船に揺られてやってきた宮島。宿に着いて早々、Kが言う。

「大我くん連れてきたの、あそこに入ってるから、後で見てくれる?」

 

わたしが彼女の白いスーツケースをまじまじと見ながら「今すぐ通報?あとで隙を見て通報?」と迷っていると「違う違う、アクスタ!」と言われる。アクスタ!わたしでもその文化は知っている。パフェの横に佇んでいるのをインスタでよく目にする。アルコール消毒するとただのアクリル板になっちゃうんでしょ、バズってたの見たよ。やってみてもいい?いいわけない。そんなことを言いながらKがポーチから出した京本大我氏、予想外に7人いたので爆笑してしまった。

 

ジャケットの裏地(赤)を見せる大我くん、民族衣装のような複雑な作りの服を着ている大我くん、Tシャツにジーパンのラフな大我くん、ジャケットの裏地(花柄)を見せる大我くん。総勢7名の大我くんを前にわたしは一言「思ったより小さいんだね」と言った。今思うと0点の感想である。興味本位で若い順に並べてもらったら、最後の1人だけスーツで、神妙な面持ちをしている。謝罪会見?と聞いたら、Eテレの番組の衣装だった。

 

一息ついた後、大聖院というお寺を目指すことにした。Kは最近御朱印趣味を始めたらしく、その大聖院の御朱印は切り絵が使われたとても美しいものだという。ネットで見たら確かに綺麗だった。が、よくよく聞いたら御朱印集めも大我くんの影響で、御朱印帳も大我くんとお揃いの、京都は南禅寺にて購入したものらしい。道理でKの趣味らしからぬ、いかつい虎が表紙にいると思った。そして我々が目指す大聖院も、彼が行ったから向かっているのだという。オタ活の旅行やないかい。

 

宿を出る前、「できるだけ荷物を減らしたい」と頭を悩ませるKだったが、7人の大我くんは連れて行くらしい。「1人だけ連れて行けばいいんじゃないの?」と言ったら「残りの大我くんがかわいそうだから」と言われた。ノコリノタイガクンガカワイソウダカラ?

 

満を持してやってきた大聖院は、もう夕方ということもあって程よく空いており、件の切り絵御朱印もスムーズにもらうことができた。Kの手によって、お寺の門に向けて、7人の大我くんが扇状に広げられる。同じ手で、もらったばかりのご朱印を背景にして。もう片方の手は撮影のためにスマホを構えているわけで、オタクってみんなこんなに器用なのか。「倒した相手を扇の一部にして戦う悪役みたい」と言ったら、ちょっとウケた。

 

と、ここで本来の最終目的地(京本大我氏が以前訪れたという意味で)である霊火堂へ行くにはちょっとした登山が必要だということが発覚。時間も装備も心の準備も足りないので、断念せざるを得なかった。踵を返して宮島の海岸へ戻る途中、Kが霊火堂の謂れを教えてくれた。そこにある「消えずの火」は、1000年以上前の高僧が修行した時の火で、以来消えずに燃え続けているらしい。言われてみれば当然だが、毎日不寝番を置いて、油を絶やさないようにしているそうだ。「これが、「油断」の語源なんだよ」。

不意打ちで一つ賢くなった。

 

ところで、御朱印をもらう時彼女が取り出したカードケースが、COACHのレキシー(恐竜のデザイン)だった。御朱印帳の虎と同様、Kの好きそうなモチーフだとは思えず「COACH好きだっけ?」と聞いたら、昨年のホリデーシーズンの商品で、広告塔が京本大我氏だったらしい。「広告出た日、たまたま仕事休みで買いに行った」。意味がわかるようでわからない。文章の前半と後半、繋がってるか?そんなに広告効果の出方が過激で、副作用はないのか。本当に彼女を構成する全て、どこを突いても京本大我氏が顔を出すので驚く。

 

その晩は回らない寿司をカウンターで食べて、宿に帰って大浴場の温泉に浸かった。普段、一歳児、メルちゃん、ぷかぷかするアヒル、象のジョウロ、500mlペットボトル、きらきらするボトルと共に入浴している身としては「風呂が広い」、これだけでかなりテンションが上がる。きらきらするボトルって何?

 

翌日はチェックアウトして厳島神社を参拝。ここでも御朱印帳の列に並んだ。やはりサラサラと、それでいて力強く書かれる「参拝 厳島神社」の筆文字は圧巻で、「わたしも欲しいかも」とちょっぴり思う。御朱印集めしてたら、全国どこでも旅行するのが楽しみになるだろうな。しかしそれよりなにより、書いてくれた神職の男性が、隣の同僚に「今日何日だっけ?」と聞いていたことに、かなり人間味を感じてグッときた。

 

その後、表参道をぶらり。観光地によくあるお箸のお店(観光地って絶対蜂蜜屋とお箸屋あるけど、あれ何で?)で、これまたよくある「名入れサービス」をやっていた。Kに、ペアの箸を買って、自分の名前と京本氏の名前を入れてはいかがか、と提案したが却下された。続けて「こういう名入れサービス、自分の名前要らなくない?推しの名前だけでいい。周りのオタクに聞いてみて」と力説された。周りにこんな強火のオタク他にいたか?と自問する。いない。Kは、オタ活に支障が出る辞令を飲めず、正社員の仕事を辞めたことさえあるのだ。そうそういない、まさに強火の、いや業火のオタクだ。

 

帰りの新幹線、わたしが先に降り、Kは東京まで乗って行く。東京ー広島間は片道4時間かかる。京本大我氏のためならハワイでも南極で木星でも行くだろうが、わたしとの旅行に2日間と安くないお金をかけてくれることには感謝しかない。そして彼女が、わたしの前でもオタクでいることに、わたしは結構感動している。オタクは基本、仲間の前でしかオタクでいないと思っていて、それは単純に「わからん奴とその話しても楽しくない」からだし、不快な思いをすることもあるからだろう。でもKは、わたしの前でも当然のように強火のオタクだ。飽かずに推しとそれを巡る彼女の思考と行動を教えてくれる。それが実際のところの十分の一でも百分の一でも、そんなことは構わない。彼女の大切なものを、分けてもらえることが嬉しい。

 

そんなことを考えながらこれを書いていたら、KからLINEが来て、曰く「推しの舞台が決まった」とのことだった。調べたらこの11月から12月にかけて、東京と大阪、それに広島で公演があるらしい。運と経験値を味方に何枚のチケットを手に入れ、どこに何回行くのか。そして総額いくらかかるのか。他人事ながら胸が熱くなる。彼女の毎日と人生を明るく照らし、同時に口座残高を焼き尽くす業火。自らの発するその消えない火が、彼女をあんまり美しく照らすから、火を持たないわたしの心も少し、焦がされる。

酒よ、人の望みの喜びよ

少し前、友だち一家と宅飲みをした。当時我が家は「なんか知らんけど酒がめっちゃあって捌ききれない」状態になっており、事態を聞きつけた友だちが、彼女の夫と2人の子どもを連れてこれを消費しに来てくれることになったのだ。子らはまだ小さく夜だと勝手が悪いので、昼飲みだ。先に近所のスーパーで買い出しをして、狭いキッチンにわらわら人が出入りして、まだテーブルの準備はできないけどもういいや、と立ったままカウンターで乾杯する。もう最高。外は晴れ、窓を開けていて風が心地よかった。ここで賢明なる読者諸兄なら、これが「少し前」どころではないことがおわかりだろう。

 

お酒が好きだ。

大学生の時にカシスオレンジとカルーアミルクから入門して、お酒って思ったよりずっとジュースじゃん、と気づいて衝撃を受けた。居酒屋のカクテルは薄いなあ、と若造なりに思うようになってからは、せめてもの抵抗で梅酒やら杏露酒をロックで飲むようになった。寒い日には梅酒のお湯割り。チェーンじゃない居酒屋に行くと蜂蜜ゆず酒やらあらごしもも酒やらが飲めて嬉しい。普通に暮らしているだけでカロリーに勝っていた、あの頃の代謝はもう帰らない。

お酒好きな友達が増えると共にワインと日本酒も飲むようになった。日本酒を飲むたびに「やっぱ日本人は米だよねぇ」とのたまう、死ぬほどダルい酒飲みの誕生である。ビールは長らくそんなに好きじゃなかったのに、社会人になった途端に飲めるようになった。ストレス社会は人を酒に溺れさせる。これはわたしだけの問題じゃないんだぞ。

 

そんなこんなで、メジャーなお酒では焼酎とウイスキー以外なら大体好きだと自己分析している。お酒も好きだし、飲み会も好き。出会い、別れ、久しぶりの再会、あらゆる季節のイベントやお祝いごとにかこつけて、お酒を飲みたい。旅行先ではいつでもどこでも、寝る前の飲酒タイムが一番楽しい。あとアラサーともなると、「飲まなきゃやってらんねぇ時」が、自分にも周囲にも多々ある。最近だと、一緒にランチをした友だちが「夫に物件探しを任せていたら家賃月25万円の事故物件に住むことになった」と頭を抱えていたが、こういう時である。本人は今「卵をあまり買わない」ことで節約をしているらしいが、あまりにも焼け石に水すぎる。彼女とわたしと、もう一人の友だちで言い合った。「その話するには酒が足りない」。

 

そんな人間なので、子を授かった時は大変だった。妊娠したらお酒飲みたい欲が無くなった、という話は割と聞くし、友達にもいた。それならそんなに辛くないと思っていたのに、わたしは妊娠発覚から卒乳までの18ヶ月、絶えずバッチバチに酒を欲していた。なんなら妊娠中も授乳中も、平時よりさらに「飲まなきゃやってらんねぇよ」という心境になっていたのに、その道が塞がっていて、より大きなストレスを生み出していた。コロナ禍で店先に設置されるようになったアルコール消毒液を、もう少しでゴクゴク飲み出すところだった。実行せず耐えたから警察にも、警察病院にもお世話にならずに済んでいる。

 

子が卒乳してお酒を解禁した時、滅多に更新しないインスタのストーリーに「酒解禁しました!!!!」と投稿したら過去一でイイねがついた。元職場の上司から、卒業後会っていない高校の時のクラスメイトまで「おめでとう!」とコメントをくれたりして、どちらも一緒に飲んだことはないのに、わたしはそんなに酒好きのオーラが滲み出ているだろうか。その夜はリハビリと称して350ml缶のビールを夫と2人で飲んで終わり、にするつもりが、気づいたら500ml缶も出してきてこっちは1人で空けてしまった。冒頭「なんか知らんけど酒がめっちゃある」と書いたけど、何のことはない、わたしのことをよく知る周囲が何かにつけて「アイツには酒なら間違いない」という正解を出してきた、その結果である。最近は実家の親まで、理由なくふるさと納税の返礼品の日本酒を送ってくるようになった。やっぱ日本人は米だよねぇ(だっっる!)

 

夫はあまり酒を飲まないので、わたしと一緒に2年間、コロナ禍も相まってほとんど酒を飲まなかった。それが別に苦でも何でもないらしい。もし2人目を考えるなら、次は夫に産んでほしいものである。わたしときたら、卒乳直後は「もう飲めるのに酒のストックがない」状況に耐えられず、料理用に置いていた、売り場で一番安いペットボトルのワインを、夜な夜な飲んでいたというのに。

 

その後は悠々自適なアルコールライフを取り戻し、心穏やかに酒を飲んでいる。めでたい日には夫と乾杯したり、カルディで安くなってるお洒落なラベルのワインを買ったり。なかなか外では飲めないが、リモート飲みで友達とワイワイすることもある。妊娠出産を経てお酒に弱くなる、という女性も割と多いように感じるが、自分には当てはまらなくてヨカッタヨカッタ。

 

そう思っていたら、件の友だち一家との宅飲みで私は鮮やかに泥酔した。宴もたけなわ、わたしが「じゃーそろそろ精算しちゃおっか」と言った時だ。言った途端、向かいにいた友だちが固まった。あれ?と思う間もなく夫が「今したばっかじゃん。やば。」と言うから、わたしはもうゾッとして、友だちは笑ってくれたけど、彼女の旦那さんの顔を見ることができなかった。

 

やっぱり酒弱くなってた、それだけならいいが、それ以前に「これまでも別に、酒強くなかったんじゃない?」という可能性が頭から離れない。思えば数々の酒の席、「楽しかったな」という記憶はあっても、何を話したかは覚えてないことも多い気がする。「記憶を無くしたことはない」のではなくて、「記憶を無くしていることに気づいていない」だけなのではないか。わたしが酒に強いんじゃなく、周囲が優しかっただけ。この十余年、ずっと。ウワアアアア!!!!飲まなきゃ!!やってられない!

 

これを書きながら『星の王子さま』に出てきた酒飲みを思い出す。王子さまにどうしてお酒を飲むのか問われた酒飲みは、「酒を飲むのが恥ずかしいから、それを忘れたい」と答えていた気がする。完全に今のわたしである。完全一致すぎて、わたしがモデルなのかと思うけど、実際にはそういう人がたくさんいるんだろう。同じ星に暮らす酒飲みのみなさん、お互い、強く生きましょうね。肝臓のことは、目に見えないんだよ。