鋭い其の目線が好き

常同行動、という言葉がある。

 

わたしがその言葉を知ったのは6年前、大阪は天王寺動物園ツキノワグマの前だった。そこに立っていた看板曰く「動物園の動物が、同じところを行ったり来たりしたり、首を左右に振り続けるといった動作を繰り返すことがある。これを常同行動という」「これは野生動物には見られない行動で(平たく言うと)ストレスによって起こると考えられている」「クマはとても好奇心旺盛な生き物だから、逆に言えば退屈に弱く、常同行動が起こりやすい」とのことだった。その看板の後ろで、2頭のツキノワグマは頭を振り振り、岩場の同じ箇所を何度も往復していた。

 

それ以来わたしは動物園のクマを100%で楽しめない。同じところを行ったり来たりしているクマはとても多いから。品川の水族館で初めてイルカショーを見た時も、わたしは「こんなに早く泳げる生き物に、このプールは狭すぎる」と思って涙ぐんだ。でも動物園も水族館も大好きなんだから、業の深い人間である。

 

その動物園に、11名という大所帯も大所帯で乗り込んだのは2月末のこと。参加者は、わたしを含めた大学時代の友だち5人とその家族である。そもそもは青森に住むSちゃん家の2歳児がゴリラを好きで、ならばイケメンゴリラと名高いシャバーニ君を見せてあげよう、と親であるSちゃん夫妻が決めたことがきっかけだった。そこでシャバーニ君の近所に住む我々も誘ってもらい、聞きつけた関東勢も参加することになった。イケメンの求心力は種族を超える。ところでサラッと書いたがシャバーニ君の現住所は愛知県名古屋市の東山動物園であり、Sちゃん一家は飛行機で当地に赴いている。イケメンより何より、親の愛、強し。

 

ゾウを見て(おっきいねぇ!)、トラを見て(しまじろうだねぇ!)、フラミンゴを見て(なんかあの一羽だけ生の鶏皮みたいな色してない?)、やって来たのは熊のいるエリア。当日は雨だったから、みんな屋外ではなく部屋にいるようだ。マレーグマに、ツキノワグマ。トラはガラス越しに見ることができたけど、熊の展示室はガラスに加えて頑丈な鉄格子が付いていて、その脅威を物語っている。熊が噛んで穴だらけになったオレンジ色のボールが展示されていて、我が子に「くまさん噛んだんだって、怖いねぇ」とか親ムーブをしていると、Sちゃんの夫氏が、妻のところに戻ってきてこう言った。

 

「一番奥に人殺せそうな熊いる」

 

反射で「それは全部の熊がそうだろ」と思うが、出会って2日目の友だちの配偶者に対するツッコミとしては乱暴すぎると判断し、心の中にとどめておく。次にHちゃんが一番奥の檻の前に、行ったと思ったら「怖い怖い怖い」と言いながらこちらへ戻ってきた。そこで皆でゾロゾロと、当該の檻の前に赴く。

 

 

そこでわたしが見たものは、黒い山だった。

唯一、バケモノじみた長く鋭い爪だけが白い。

途方もなく大きく重たそうな頭。子ども向けのあらゆる創作物に登場するのに、そのどれにも描かれない、長く突き出た鼻。ただ漫然とこちらを眺めているのではなく、人間共を注視する眼。

これは一体、と見た名札に書かれていたのは

 

「エゾヒグマ」

 

これが、と思いつつ、もうそのヒグマから目が離せない。本能に赤信号が点灯する。脳内に、危険を知らせる警報が鳴る。

 

「怖すぎる」「爪やば」「これ外で会ったらおしまいだよねぇ」等々言い合いながら、わたしはその檻に背を向けることすら怖かった。背を向けた後は、振り返ることが怖かった。

 

その後お目当てのゴリラを見たものの、わたしにはどれがシャバーニ君なのか見分けがつかなかった。まぁわたしあんまり異性の美醜に聡い方じゃないしなと納得しつつ、これは夫には言わずにいる。その後は「3日寝てません」みたいなバキバキの目をした毒蛇を見て盛り上がったり、そのまた後はシンリンオオカミを見て「モロの君じゃん!!黙れ小僧!!」とはしゃいだ。地面を滑るように歩くアルマジロも、ぬいぐるみのようにフワフワぽてぽてのレッサーパンダも、引くほどの大げんかをしていた2頭のアシカも、皆見ていて楽しく興味深かった。それでも今なお思い出すのはあの黒い山、横たわるエゾヒグマだ。

 

彼と見つめ合った時、わたしは自分がこれまで動物園の熊に抱いていた気持ちが「同情」だったことにはっきり気がついた。そして彼には、その一切が必要なかった。彼は何も諦めていなかったし、悲観してもいなかったし、退屈してもいなかった。明らかに、捕食者の眼でこちらを観察していた。

 

書きながら『ハリーポッターとアズカバンの囚人』のことを思い出す。その囚人は冤罪で長いこと服役したのだが、多くの囚人が正気を失う監獄で彼がそうならなかったのは、彼が「自分は無実である」という思いを強く心に持ち続けたからだった。東山動物園のヒグマには、その囚人と似たものを感じる。いつかは彼もアズカバンの囚人と同じ道を辿るつもりでいるのだろうか。またあるいは、第一巻でハリーが出会った動物園の蛇。彼だって動物園生まれだったけど、ガラスが消えた時、どうしたんだった?

 

対するわたしは、エゾヒグマが脱走する可能性を恐ろしく思えど、せいぜい東山動物園の職員が檻にしっかり施錠しますように、と祈ることしかできない。あまりにも無力。そしてもし外で熊に出会ったら、パニックになって逃げ出すんだろう。それができれば良い方で、実際は腰を抜かして逃げることもできない可能性の方が高い。どっちにしろ結末は同じなんだから、その場で気絶するのが一番幸せかもしれない。「熊と出会ってしまったら、目を合わせたまま、ゆっくり後退しましょう」だなんて、あのヒグマを見た後では机上の空論すぎて笑えてくる。

 

きっとわたしはこれからも、しっかり野生を忘れて動物園を楽しむ。動物の常同行動も目にするだろう。確かに彼らは退屈しているかもしれない。だけど彼らが野生を忘れているかなんて、その境遇を嘆いているかなんて、わたしにはわからない。わからないのに彼らを憐れむことこそが、人間であるわたしの傲慢なんだろう。あの時わたしの中から湧き出て来たものは、確かに本能から発せられる危険信号だった。わたしが動物園の熊に寄せるべきは同情ではなく恐怖、それが転じて敬意なのかもと、今はそう思っている。