スマホを落とすなら

午後一で子の歯科健診があり、会場の大部屋で順番を待っているところで、スマホがないことに気がついた。うわ、と思う一方で、意外と冷静な自分もいる。たぶん乗ってきたバスの中だろう、と予想がついたからかもしれない。もちろんショックではあるので、子に「ママ、スマホ失くしちゃったかも」と話しかけたが、子は歯科医の待つ部屋の扉を凝視していて反応はなかった。

 

帰途、虫歯なしという結果に安堵しながら、最寄りの停留所でバスを降りる。そこは市役所の分室で、もしかして行きのバス停で落としたなら、ここに届いてたりしないだろうか?そう思って確認することにした。10人ほどがいそうな事務室、目が合った女性に「スマホ落としたみたいなんですけど、届いてませんか?」と聞いてみる。その途端「えー!大変!」「誰か、スマホの落とし物知ってる?」騒然とする事務室。いやいやいや、「ないですね」で終わりだと思っていたのに。いいのに。「あー全然、なければいいんです」とそのまま言うと、最初に声をかけた女性に「電話してみた?」と聞かれる。「してないです、スマホないんで」と答えるしかなく、なんかおちょくってるみたいになって申し訳なかった。

 

そうしたら「ここので電話してみて」とガラケーを渡される。電話ってどうかけるんだっけ、受話器マークは最初?最後?とか思いつつ外に出ると彼女もついてきて、えっ探してくれるの!?まったく想定外の厚待遇を受けて、なんだか恐縮してしまう。スマホを落としただけなのに。これでわたしの鞄から着信音が聞こえたらめっちゃ恥ずかしいなとドキドキしながらコールしたが、結局スマホは見当たらず、わたしはお礼を言ってガラケーを返した。彼女は「見つかるといいんだけど。怖い怖い」と言って事務室の中に戻っていった。

 

スマホを落とすって、怖いのか。

それがずっとピンときていない。ショックではあったけど、怖いとは?

 

そう夫に言ったら、まずは「クレカとかお金が入ってるから、使われちゃうかも」と言われた。そして「個人情報もめちゃくちゃ入ってる」だから怖い、とも。なるほど。なるほどだけど、我々には、6桁のパスワードが!あるじゃないか!!

 

パスワードは?と言ったら夫は「そんなの簡単に破れるじゃん」と言う。大変驚いてどういうことか聞いたら「最初から順に試せば、いつか必ず開くんだから」と言われてまた驚いた。000001から始めて999999までを試していくのを、簡単て言ったのこの人?そう言ったら「000000からだよ」と言われた。そういうことを言ってるんじゃない。

 

そんなことしてたら、日常生活に支障が出るんじゃないか。寝食を忘れてスマホをポチポチポチポチポチポチポチポチポチポチポチポチ(これでまだ、2通り)。寝食は忘れなくてもいいけど、なんとなくやめ時も逃しそうだし、普通に朝まで試して後悔して、でもやめられなくてみたいな、普通にスマホあるあるの負のループ。想像しただけで目が悪くなる。

あと他の機種は知らないけれど、iPhoneはパスワードを複数回間違えるとロックがかかり、その後数分は解錠できなくなる。間違えれば間違えるほど、その時間が延びていく。多分100万通りを試す前に、開けようとした誰かの寿命が尽きるのでは?

 

「でも個人情報はお金になるからね」と夫は言う。わたしだって個人情報を入手したがる悪党がいることぐらいは知っている。でもそういう人らってもっと組織的というか、個人情報を入手するルートみたいなものがあるんじゃないのか。わざわざ誰かが落としたスマホを探して徘徊して、せこせことパスワードを入力してなんてことをやっているとは思えない。効率が悪すぎる。「そう思わない?」「でもスマホなんて結局、USBみたいなもんだから。パソコンに繋いだら中身は抜けるんじゃないかなぁ」もしかしてわたしはその悪党と結婚したのか、それとも適当なこと言われて丸め込まれそうになってるのか、どっちですか?

 

自分の個人情報が他人に渡ってると思ったら、怖くない?と聞かれたけど、それは怖い。でもわたしの中で、スマホを落とす=個人情報の流出、という感覚がいまいちよくわからない。あとわたしの個人情報は、とうの昔にベネッセから流出しているので、もうどっちでもいいや、みたいな気持ちもある。

 

そもそも街中で落とし物のスマホを見つけた時、それを「然るべき場所に届ける」と「売り飛ばす」が等距離にある人、そんなに多いのか。わたしはスマホを見つけたら、施設内ならその施設の人間に届けるし、外ならまあ、交番に届けると思う。うーん、よっぽど急いでなければ。でも「売ろう」と思ったことはない。なさすぎる。「そんな人、少ないでしょ」「少なくても、ゼロではない」「でもそれはもう、交通事故とかと同じじゃん」「交通事故は怖いでしょ」「うーん………?」やっぱり丸め込もうとしてないか?

 

フェアじゃないので言うけど、財布なら揺れる気持ちはまだわかる。届けるよ、届けるけど、届けない人がいるのもわかるから、財布を落とすのは怖い。あと免許証とか保険証とか、こっちはノーガード個人情報なのでそれも怖い。でも同じ人間がスマホを拾ったとして、そのスマホを破ってまで個人情報を得ようとするだろうか?そんなめんどくさいことを?と思うのは、わたしがめんどくさがりやだからなのか。

 

一歩も歩み寄れないまま話は終わろうとした、ところでふと聞いてみた。「じゃあ海とかに落とす方がいいってこと?」夫は躊躇いなく「そうだね、それはスマホが壊れるだけだから」。

な〜るほど。前段の「スマホを落とすのは怖いことだ」という感覚はわからないままだけれど、夫の考え方には少し近づいた気がする。わたしは海の方が嫌だ。落とした瞬間に一生返ってこないとわかるそのダメージが、喪失感が、強すぎる。落としたのが人混みなら、誰かに見つけてもらえて、戻ってくると信じられる。現にわたしのスマホはバスの座席に取り残されていたようで、バス会社に連絡したところあっさり出てきた。気づいてくれたのは、次に乗ったお客さんだろうか、運転手さんだろうか。いい人に拾われてよかったね(犬に言うセリフ)。

 

しかし、わたしが怖がろうと怖がるまいと、重要なのはそこではない。スマホには貴重な個人情報がたくさん詰まっていて、それは自分のだけではなく、多くの人のものなのだ。だからわたしは(こう見えても)反省しています。この反省を持続可能なものにするために『スマホを落としただけなのに』を見るべきかもしれない。内容は知らないけれど、「スマホを落としただけなのに」の文言の後にお気楽ハッピーシンデレラストーリーが待っているはずがない。それを見れば「どうせわたしの個人情報なんて、とっくにベネッセが」というナメた気持ちも、北川景子が一撃で叩き直してくれることだろう。