実質、土石流

子が体調を崩した。先々週末の日曜日の朝、あら微熱、と思ったら午後には40度。翌日駆け込んだ小児科で「風邪ですね」のお墨付きと解熱剤をもらった。子は去年の11月末に初めて発熱したと思ったら、あれよあれよという間に41度という、世界が認める高熱を叩きだし、12月になる1時間前に熱性痙攣を起こして救急車のお世話になった。これはわたしの確固たるトラウマとなり、今回もその再来かと思うと恐ろしくて、自分がこんなに元気なことが苦しかった。

 

この「子の体調不良」の破壊力たるや!ひとたび子が熱を出せば、親の体力は根こそぎ奪い去られ、メンタルは破壊し尽くされ、その週に入っていた予定は全て押し流されて、後には何も残らない。いや、後回しにした家事が、部屋のそこかしこに山積している。その惨状を見て茫然としてしまうのは、わたしが新米不器用ママだからなのか。

 

今回、熱は数日で下がった。しかし、それでもう安心の元気いっぱいとならないのが一歳児。熱が引いても鼻水が止まらない。明日には治ると思いつつ迎えた木曜日、わたしは体感20分に一回のペースで子の鼻水を吸い取っていた。そんなに吸っていても子は鼻水の吸引に慣れるということがなく、毎回新たな気持ちで大暴れするので、今日こそはご近所に通報されるかも、と身構えていた(されなかった)。明日こそは完治と願いながら迎えた金曜日には、咳まで出だして再び小児科のお世話になる始末。

 

呼吸が苦しい子は夜も眠りが浅いから、何度か泣きながら目を覚ます。フィクションのようだけど、代わってあげたい、と心から思う。思うけど、母性大爆発というより、代わった方が楽だから、という単なる楽したがりが実際のところのような気がする。自分の体調が悪いのと、子の体調が悪いのでは、メンタルに雲泥の差がある。心配するのは体力が要るし、平たく言えばすごく疲れる。

 

子は一歳半で、まだ話すことができない。どこが痛いのか苦しいのか、暑いのか寒いのか、水分は足りているのかそうでないのか、わからない。わからないのに、病院に行くべきか様子見でいいのか、解熱剤を使うか使わないか、判断しないといけない。しかもそれに子の命がかかっているかもしれない。これは本当に、本当に疲れることだ。具合の悪い子は私の元を離れたがらないので、子が起きている間は誇張でなく一切の家事が進まない。そして子が寝ている間に家事をやっつけ、やっと生まれた自由時間を、よせばいいのにネットで「一歳 脱水症状」「一歳 風邪 受診の目安」「一歳 インフルエンザ」と検索する時間に充ててしまう。そして自分を安心させる材料を見つけては安堵して、不安材料を見つけてはまた心を擦り切れさせる。そんなことせず、わたしも一緒になって寝た方が肉体的にも精神衛生上もいいに決まっている。わかっているのに。そんなことばかりしているから疲れてしまうんだ。疲れているから、今回の子の体調不良の間にわたしは、見知らぬマンションの非常階段を上っていたら変死体を発見する、という夢まで見た。サルでもわかる悪夢。

 

あと何回、これを経験するのだろうか。考えただけで気が遠くなる。二度と体調を崩さず元気でいてほしい。そう思うのは結局、自分がかわいいから。つらい思いをしたくないから。わたしはママになったのに、相変わらず自分ばかりをかわいがっている。

 

ちなみに件の熱性痙攣のとき、痙攣自体はすぐに落ち着いて入院にもならなかった。しかしそこからが大変で、翌日もそのまた翌日も、子の熱が下がらない。コロナでもインフルでもなく、じゃあ何?わからないまま夫は泊まりがけの出張に旅立ち、わたしは原因不明の高熱の子と2人きりで家に引きこもるしかなかった。この強烈な一週間がわたしのメモリを焼き切り、わたしは2022年、1月から11月までの記憶がない。県越えの引越しとかあったはずなのに。それでも12月には6年ぶりに大学時代の友達とのクリスマス会に参加できたから、2022年楽しかったなと思える。よかった。その帰り道、初めて「新幹線の運転見合わせ(4時間)」というイベントに真正面から巻き込まれた。お後がよろしいようで。